えみため日記 

日はまた昇る! 言霊のさきはふ國 神づまり坐すこの國に 生まれたことのしあはせを♪

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そんな法案反対だ!と識者が声を上げても、イヤそんなんかなんわア、と一般人がつぶやいても‥”なにかの力”でゴリ押しされて法の施行が始まってしまう。大切なものが失われていく‥

戦後すぐにもそういうことがありました。(あったと聞いています^^;)もうあらゆることがひっくり返されたなかで、ことに日本人にとって切実、なはずの言葉の表記、
『仮名遣ひ』が「現代かなづかい」に改められた
歴史的合理性、一貫性をもった仮名遣いを、どうして「現代的」にあらためる必要があったのか、十分な議論も尽くさず拙速に。
この「現代かなづかい」と戦い続けた文学者福田恆存の戦闘の書『私の國語教室』(この教という字も旧字体で変換できません。以下引用部分も著者のかいたままでは表記できないことをおことわりします)。いまこれを読み返すことはおおいに意味があると思います。先人、かく戦ひき。

kokugo.giffukuda.gif


                            3/20追記
私の國語教室」は福田恆存のタメイキからはじまっています。

 最初に樂屋話をしますと、私はこれを書きはじめるまでに既に百枚近くも無駄にしてをります。二十枚位までがやつとで、それから先を書きつづける氣がなくなり、改めて別の入口から書きはじめる。そんなことばかりやつてゐるのです。十數年の文筆生活において初めての經驗であります。これは一體どういふことなのかと、さすがに考へこんでしまひました。

と、ひどく書きあぐねているようす。書きたい意欲はじゅうぶんにあり、書きたいことも山ほどあるというのに‥で、ようやく次のことに気がついた、と。

 私の筆が進まない理由は、これから書かうとする内容にあるのではなく、また私自身における意慾の不足にあるのでもなく、私が語りかけようとしてゐる人たち、手つとり早くいへば、一般讀者の側にあるのです。

ドクシャに喧嘩売ってますか、福田先生(^^);

 言ひがかりのやうですが、率直にいつて、それは本當なのです。一般讀者といつても、これが發表される雜誌の性質と私の職業から考へて、それは文學に關心をもつ讀者といつていいでせう。私はさういふ讀者を頭において書きはじめる。さうすると、決つて二十枚近くまでゆくと、厭になるのです。書く氣力を失ふ。それは一種の劣等感に基づく不安なのであります。すなはち、書きはじめて暫くすると、相手が私の話を聽いてゐないのではないかといふ不安が頭をもたげてきて、それが大抵二十枚目くらゐで最大限度に達し、うんざりして筆を投げるといふわけです。といつて、私は讀者を他に選びたくはない。それどころか、おそらく國語や國字の問題に關心をもたないであらうさういふ讀者にこそこれを讀んでもらひたいのです。私が書くほかのものを讀まなくてもいいから、これだけは讀んでいただきたい。さういふとはつたりじみて聞えませうが、もちろんそんなつもりはありません。他の私の文學論や創作と違つて、これは誰にも即座に役だつことだと思ふからです。そこで私は自分の心構へのためにも、「私の國語教室」の讀者を次のやうに規定します。
一 作家・評論家・學者、その他の文筆家。
一 新聞人、雜誌・單行本の編輯者。
一 國語の教師。
一 右三者を志す若い人たち。

「現代かなづかい」や「当用漢字」を制定した国語改良論者たち(国語審議会)は、反対論にたいしては「文学主義」「唯美主義」と攻撃し、大衆の味方です!とばかりにこちらは「実用主義」だと宣伝しているが、文学者はなにも「文学的」でないから反対しているわけではない、「語学的」に正しくないから反対しているのだ。國語學の專門家として最も信頼すべき人時枝誠記博士の厳しい批判に、国語審議会はまともに向き合おうとしない。どうせ大衆は專門家の論文なんか読みはしない、勝てない相手と会戦することを避けて、勝利を見せやすい場所で宣伝戦をやろうというのだ。

 かういふ事情を考へると、國語問題において、何よりも重大な事柄は、といふより、それを論じる場合、まづ第一に除去しなければならぬ障碍は、一般知識階級のそれにたいする無關心といふことであります。そのために問題がうまく處理されないからではなく、その虚に乗じて、どうにでも勝手に處理されてしまふからです。

 私は昭和三十年、三十一年に、金田一京助博士との論爭の形式において、「現代かなづかい」「当用漢字」の非なることを述べました。そのときに痛感したことですが、その私の所論は當事者、ならびに多くの國語問題研究家をこそ刺戟しましたが、一般はただ喧嘩好きの私が例によって例のごとく新しい喧嘩相手を見つけたくらゐにしか思つてくれなかつたことです。大抵の人が喧嘩の事實は知つてゐても、私の文章を讀んでくれてはゐないのです。しかも、論爭は「水掛け論」あるいは「泥仕合」の樣相を呈してきたなどどいふものまで出て來る始末でした。讀んでゐないから、さういふのであつて、問題は讀んでくれぬことにあり、讀んでくれないのは、關心が無いからであります。私はかならずしも國語學の知識がないからだとは思ひません。

 結局は關心の有無といふことにあります。關心が無いため、あるいは關心があつても、その焦點が異るため、國語についての同じ知識が、國語改良論者に都合のいいやうに動かされるといふ結果になつてゐるのではないでせうか。私は國民一般にとは言はない、右に規定した人々にお願ひします、國語問題に、そして國語に關心をもつていただきたい、あるいは正しく關心をもちなほしていただきたい。もちろん、自分たちの國語に無關心でゐることは、普通には健康であることの證據なのです。文學者の場合ですら、さうであります。何事によらず、自意識過剰は一種の狂氣でありますから。が、他に極端な自意識過剰が、狂氣が存在するとすれば、どうするか。私は國語改良論者は狂信的であるといふ海音寺潮五郎氏の言葉に同感です。たしかに國語國字問題には、いや、一般に言葉といふものには、下手にこれに對すると、人を狂的にする何ものかがある。言葉は誰にとつても身近にあるものです。言葉は自分の外にあつて、しかも自分の内にある。自分の肉體と同樣に、自分の意のままに操れるものであり、しかもどうにもならぬものであります。したがつて、それは人を自意識過剰に導き、自慰に墮せしめる。さういふ誤つた過度の關心が問題を推進し、現實を動かしてゐるのです。それゆゑにこそ、私たちもそれを阻止するために、一度は國語問題に關心をもたねばならぬといふわけです。

                     (強調、下線などは���݂�1が任意に入れております)
「國語問題」を「人権擁護法案」とおきかえれば、今のワタシたちの状況そのまんま。”誤れる過度の關心”を人権擁護にそそぐ勢力が、多くの人々の知らぬ間に”問題を推進し現實を動かさうとしてゐる‥”
状況、はなにも変わってはいないのですね。国をこじあけられたそのときからずっと。
漢字を廃止し、ヨーロッパの言語を国語にしよう!という動きは幕末からすでにあった。
前島密さんや西周さんの目から見れば、言葉を欧化することこそ、西洋列強に伍する最短の道にみえたでしょう。
そして敗戦。動きはぐんと加速した。アメリカ教育使節団は、煩雑な漢字の使用が日本の民主化を妨げていると報告、日本語の”簡素化”が占領政策のひとつになった。漢字制限、表記の”表音”化‥それは最終的には日本語の廃止まで視野に入れていたはずです。

さて、「國語改良論者」たちは、あるときは改革の目的は表記の表音化にあるといい、表音化という語が警戒されるとみるや音韻がどうの、と論を左右にして言い抜けようとする。業を煮やした福田恆存は、テキの「重砲陣地」を個別撃破していきます。

(うわっまた消えた!保存、すると書き足した部分が消える?!?)
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