えみため日記 

日はまた昇る! 言霊のさきはふ國 神づまり坐すこの國に 生まれたことのしあはせを♪

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 そこにゐらしたんですか…!
 思はぬところで思はぬ方にお会ひしました。

 ”お写経”してゐて、やつぱりほしいな『漱石全集』…と、日曜日に図書館へ借りに行きました。ついでのこと、窓際の机席を取つて、こころゆくまで”お写経”しようと…(^^)
『坊っちゃん』の収録されてゐる『全集』第二巻、附録の月報を何の気なしに開くと、そこに栗本薫さんの一文が載つてゐたのでした。
実は……」 といふタイトルで書き出されたエッセイふうの小文で、栗本薫は”意外に思われるかもしれないが、私にとっては夏目漱石の影響は非常に大きいのである”と”告白”してゐるのでした。
 おウチにあつた『漱石全集』の第一巻をとりだして『吾輩は猫である』をよんだ小学2、3年生のかをるちゃん(ご本名なら、すみよちゃんですか^^;)は、
 ”あんまり「吾輩は猫」に染り切ってしまって、それ以外のものは受付けない心境になってしまった”ため、第二巻に手が出なかつたのだとか。

 じっさいあれにはいかれた。
 何にああいかれたのか、と思うに、まったく「旧仮名使い」というものの美に、である。小学校低学年ではいかに早熟だったとはいえ、漱石が書いていることが半分もわかったとは思えないが、わからぬからこそいかれた、ということもある。そのあととにかく丸暗記するほどに何回も何回も読返し、意味もわからずに調子のよさと見た目の字づらのよさにうっとりしていたのがだんだん意味がのみこめてくるにつれてますます好きになり、だからかえって他の漱石の作品は読みたくなかったらしい。「坊っちゃん」は好きだったが、到底「猫」ほどではなかった。

 
 小学校低学年にして「旧仮名の美」に耽溺してゐたとはまことにオソるべき子供でゐらした(^^) かうして耽溺した漱石から、超然としてシニカルな文体、対象との距離の取り方といふものを学んださうです。
 
 そして”漱石だけは絶対に「原書」で、旧仮名使いの、極力漱石の元原稿に近い形で読まなければ意味がない”と言ひ切られるのです。激しく同意!! しかし…漱石自筆原稿の写真版で”お写経”してゐるワタクシは、ここでハタ!( ゚д゚)と思ふたのであります。幼きかをるちゃんの読んだ「猫」は、漱石の書いたままのそれ、だつたらうか?
 こころみに、栗本薫が同稿で”「イナゴ」だの「バッタ」ということばを耳にしたとたんに反射的に「それはイナゴぞなもし」だの「なもしたなんだ」などと口走ってしまったりする”と例を引かれてゐる、あのバッタ事件のくだりをすこし引いてみませう。

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 右が『漱石全集』(1993年に刊行が始まつた新版で、かをるちゃんの読んだ版とは違ひませうが、活字で読み得る旧仮名遣ひといふことで)
 その左が『直筆で読む「坊っちゃん」』(集英社新書ビジュアル版)に載る漱石自筆原稿。いかがでせう? なかなかすらすら読み下すといふわけには…
 ひらがなでさへ、いまのワタクシたちにはなじみのうすい”変体かな”が用ゐられてゐます。その左に、ワタクシめの写しをならべてみました(^^) これでいくらか読み易い…こともないか…

 右の、美しく印刷された「旧仮名遣ひ」には、たしかに読むものを陶然とさせる魅力があると思ひます。しかし、漱石の書いたままではない。漱石が綴つた変体仮名は、近代化以前の江戸の文芸につらなつてゐる。まさに歴史の流れの一場面、なのですね。
 ただ、「旧仮名遣ひ」は、過去といま生きてゐる人間をむすんでくれる、たいせつな橋渡し役なのだと思へます。ホントなら、すべての日本人が「旧かな」「変体仮名」をふつうによめてつかへるべき!(`・ω・´)とワタクシは思ふのです。
 いま文庫本では漱石は「現代仮名づかい」に直されたものしか手にはいりません。本人が「旧かな」で書いたものを、だれが何の権利で書き直せるといふのか。
 GHQが戦後間もなく強制した”国語改革”を、決して後退させまいと必死で見張つてゐるお犬さま乙であります。蟻の一穴なるコトバがあるとほり、ひとつをうごかせば、歴史認識その他にまで影響が及ぶと警戒怠りないのでせう。
 まさしく、「新字新かな」は、文化の流れを断絶して日本人を歴史的孤児にする策略だつたのです。

 おしまひに、「実は……」の最後の段落を引用いたします。
 

しかしとにかく漱石、鴎外だけは「何があろうと」、どんなことがあろうと絶対に「原書」で読まなくてはならぬ。つまり旧仮名使いの、極力漱石の元原稿に近い形である。新仮名に直された漱石なんか何の意味もない、と云い切ってしまいたいくらいだ。あのふりがなのおかげでどれほど字を覚えたかわからないし、第一あの程度の漢字や文章を難しいと思うような頭では次代の日本文化を担う人間なんか生まれてくるわけがないのである。このことだけはなんとしてでも主張したいなあと思っている。それが、漱石から「日本語の素晴らしさ」を教えられた文筆業者のつとめである、と思っているのだ。


 このところだけでも、旧仮名で書いてみてほしかつたなあ…(´・ω・`)
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容量オーバー?追記ができませんので、のこりをあらためてこちらにかきます。

3/16の項で、「私の國語教室」の「序」を抜き書きしました。ここで福田恆存は「私が書くほかのものを讀まなくてもいいから、これだけは讀んでいただきたい」「國語に關心をもちなほしていただきたい」と読者に懇請しています。福田恆存が生涯をついやして書いたもののなかで、これだけは、ほかのどれをおいても読んでもらいたい、ただ一冊の本だというのです。
「そうか、歴史的かなづかいの本か」と軽い気持ちで買いましたが、この序文の異様な
”熱”にただならぬものを感じました。文中、ときおり熱い蒸気がぼこっと噴き出すように、
一體、これはどういふわけか」「その言ひ分がふざけてゐる」「しらふの人間の言葉とは考へられません」「全く人をなめてをります」と激しい言葉が混じる。
この人はほんとに怒っているのだ。この人の大切なものを踏みにじるヤツが許せないんだ‥”と思ったことでした。
しかも‥辛いことに、この”大切なものを護る”戦いは多勢に無勢、というより個々の論戦では圧勝といっていい勝ちをおさめているのに、なぜか勝負の大勢がうごかせない。それはテキの多勢には、おびただしい数の無關心の人々も結果的に力を貸しているから。
kokugo.gif
私の國語教室」は、序と追記をのぞくと六つの章からなっています。
一字一音、一音一字の”表音主義”を標榜する「現代かなづかい」の矛盾を指摘する第一章「現代かなづかい」の不合理、「歴史的かなづかひ」がかえって合理的でまなびやすいことをしめす第二章「歴史的かなづかひ」の原理 第三章「歴史的かなづかひ」習得法
ここでおわってもよさそうなものですが、著者、いや論客福田恆存はさらに念をいれる。
 なぜなら、”表音主義”の盾ではしのぎきれないとみるや、國語改良論者は
「発音どおりに表記するなどと誰がいったか。現代かなづかいは正字法であり、現代語の音韻を代表するものだ」 とのたまうからです。

「え?ナニ?音韻?」なにやら専門用語らしきものをもちだされると、シロートの頭には霧がかかってしまいますがちゃっちいアタマですみません(^^);  音韻とは、実際に発音している音声ではなく、たださう發音してゐるのだと思ひこんでゐる、もしくはさう發音しようと思つてゐる、いはば言語主體の心理のうちにある音の單位を意味する のだそう。分かるかそんなもん。飛び道具とはヒキョーなり。
 この國語改良論者がもちだす西洋わたりの”音韻論”に照らしても、「歴史的かなづかひ」のほうがよく日本語の音韻を代表していると、第四章「國語音韻の変化」第五章「國語音韻の特質」の二章をさいて論破しています。
ただし、國語國字問題について一般的な知識が得たい向きは、三章以下をとばしてもらってかまわない、と序でことわりがきがあります。たしかによみやすいとはいえない‥(^^);

ただ、その場合でも第六章は追記と共に必ず讀んでくださいとも。
第六章 國語問題の背景では、「國語改革」推進派の意図と手口、それがいかに誤れる考えに依っているかが暴かれます。(なるほどテキはその手でくるか!)
事実をいつわり、火のないところに付け火する
(ほらっ漢字と仮名遣いのせいで日本語はこんなに混乱しているぞ!) 
俗耳に入りやすいことばかり聞かせて、本当の目的は隠しておく。
「現代かなづかい」も「当用漢字」もすべて政策にすぎず、それらを通じて彼等が命がけで追求している目的は何かと言へば、それは國字の徹底的な表音文字化であります。漢字を全廢して、かな文字かローマ字にしてしまはうといふことであります。
近代的でない、国際化にのりおくれる、と外圧をたのみにする。
(タイプライターにのらないから漢字をやめて日本語を表音文字化する??この手が幾度つかわれたことか。現にいまだって、日本の人権意識は立ち後れているとかなんとか)
人権擁護に名を借りた「人間蹂躙法案」の危機にさらされているいまだから‥読んでほしい。読むべきです。(`・ω・´)なんて強引に。ごめんなさい‥もう読んだ!(・∀・)という方もまーだだよ!(^-^)という方も、いまという時期に(また)読んでほしいな‥と祈る気持ちです
おなじことが、繰り返されている。この「國語改革」のときも、そしていまも、日本破壊の流れが、ワタシたちを押し流そうとしている‥

 巻末に、福田恆存全集覺書四がオマケで附いています。
 二中時代の恩師である時枝誠記博士をはじめ「國語改革」反対の行をともにした人々のこと、死の間際まで「國語問題」のことを心にかけていた鴎外森林太郎のことなどを綴り、その末尾に曰く

 かうして幾多の先學の血の滲むやうな苦心努力によつて守られて來た正統表記が、戰後倉皇の間、人々の關心が衣食のことにかかづらひ、他を顧みる余裕のない隙に乗じて、慌しく覆されてしまつた、まことに取返しのつかぬ痛恨事である。しかも一方では相も變らず傳統だの文化だのといふお題目を竝べ立てる、その依つて立つべき「言葉」を蔑ろにしておきながら、何が傳統、何が文化であらう。なるほど、戰に敗れるといふのはかういふことだつたのか。 

 この言葉は、福田恆存の絶望の言葉でせうか? 敗北宣言、なのでせうか?

 この最後のことばが胸に残つて、江藤淳の「閉ざされた言語空間」や三島由紀夫の「文化防衛論」などの”類書”を手に取るやうになりました。
 敗れし國の民であること、戰はいまだ熄まず、かたちを變へた戰にいまも敗れつづけてゐること。あらためて、日本とは何だらうか、守るべきものとは何なのだらう‥などといふことを思つたり。
 何処でかは忘れましたが、福田恆存はかう言つてゐたと思ひます。
日本を守るとは、この俺を守るといふことだ
この俺のなかに培つた言葉の精髄、これこそ俺の守る日本だ。さういふ自負と自覺の言はしめた言葉と思はれます。さうして、福田恆存の言葉はいまも生きて、私たちのところへ届いてをります。

‥しかし。ここに漕ぎつけるまでに三回、”保存”のたびに入力が消えてをります。(´・ω・`)
字数が多すぎるせゐでせうか?

こよみ

2017 / 11
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